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始動

 

 

わが初石少年サッカークラブはどのようにして生まれたのか。聞き書きを進めるうちに、長い間、忘れられていた事実が浮かびあがった。そこにはきっかけを作った一人の少年の言葉と、それを実現しようとしたお母さん、そして母親をサポートした青年がいた。

母親は昭和54 年の初夏、流山運動公園で開かれていたテニススクールに通っていた。当時、小学校3 年生の息子は村上貴政クン。 そして、お母さんは村上千代美さん。 ある日、「サッカーをやってみたい」と息子が言った。日本ではまだサッカーがマイナースポーツだった頃である。母親はテニスの指導を行っていた流山市役所社会体育課の職員、石渡昭さんに相談。その頃、石渡氏は3 0 歳そこそこの青年であったばかりか、高校時代に神奈川県のベスト・イレブンに選ばれたほどの名サッカー選手。加えて、当時市内に一つしかなかった少年サッカークラブ「平和台サッカークラブ」(後の隼サッカークラブ)で指導を行っていた。偶然の出会いのようだが、そこには歴史の必然も隠されていた。石渡さんは「私たちはちょうど、市内に少年サッカーの普及を考えていました。ゆくゆくは市内に5 〜6 のクラブを作りたいと思っていた」という。 「どうしたらいいか、平和台の三森さんに相談したりしました。 とにかく同じような子供がいるかもしれないので、市の広報に載せてみては、とアドバイスされました。 石渡さんには、あなたが軸になってやれと言われたのです。クラブができあがったらコーチとして行くと約束してくれました」(村上夫人)。「うちは昭和51 年にできたのですが、お手伝いというより、会則などを渡しました。それが母体になっているかもしれませんね。とにかく村上さんは、ご夫婦で熱心でしたね」と、当時平和台の三森郁子さんは回想する。

とりあえず人集めからはじめ、「若葉台で息子の遊び仲間だった秋山クンのお母さんや、広報を見て電話してきたお母さん方を巻き込みました」(村上夫人)。

第一住宅エリアは後にコーチとなった惣田清政さんを中心に、あっというまに20余人が集まった。中には、「見学に来ていて引っ張り込まれた」という秋山盛喜第4 代会長や、「会計として、会費集めもやりました」という秋山妙子夫人なども。

昭和54 年7 月、こうして初石少年サッカークラブが産声をあげた。とはいうものの当初から順調に行ったわけではない。

「私のうちを事務局として発足、一週間に一回西初石小学校を借りて練習することにしましたが、石渡さんは日曜日も仕事で忙しく、なかなか来られません。子供がグランドに来ても教えてくれる人がいません。 そこで主人にバトンタッチしました」(村上夫人)。

 

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