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「初石合宿始まる」

 

まず、サッカーを知らない人が大半とあって、「村上さんがホネを折って、オフサイドなどのルールをメモした青焼きを作成してくれました」(惣田さん)。蹴り方など、実践は石渡さんがもっぱら受け持った。

その頃を回想して惣田さんは、「レールが敷かれて走り出した。現実に子供が多くなってきたし、厳しくなったのも事実で、容赦なく叱ることもあり、地獄が始まったと感じる親子もいたかもしれません。

だが、学校側も教育につながると、評価してくれたこともあります」、「校長からも、うんとゲンコツを落としてほしいと頼まれたりもしました。実際に、サッカーをやっている子はまとまりがあり、活発で他の子を

引っ張っていった。それを学校も認めて、これならまちがいないので協力しようと思ってくれたのではないでしょうか」。初石伝統の合宿だが、これはなんと予想に反して設立した翌年の夏、つまりわずか一年後に開催された。 記録によると、それは昭和55 年7 月26 〜28 日。参加したのは、3 年生以上の40 人で、8 つの斑に分けられた。村上夫人はこの辺の事情について、こう語る。「合宿によって、自立心を付けたいとの願いがありました。でも、親としてついて行きたいという過保護の人もいたし、合宿中に私の家に心配の電話がかかってきたりして、合宿をやってよかったかどうか悩みました」というから、親心は今とそう変わらなかったのかもしれない。 また、「家庭でも叱らなくなってきていた。われわれが叱ってやった面

もあります。 子供を呼び捨てにしただけで泣き出した母親さえいたし、合宿でもべったりして子離れできない人もいた」(秋山元会長)。

合宿の場所は、野田のチサン健康センター(大利根チサンホテル)で、石渡さんのお世話になったもの。 市のバス「あおぞら号」をチャーターし、3 年生以上が参加した。 ちなみに、二年後には参加者が約50 人・10 班にも達した。 二泊三日の泊まりがけで、練習場所は利根川の河川敷だが、宿泊場所から徒歩20 分のここは台風が来ると水浸しになり、使えなくなった年もあった。 雨上がりのドロンコの時はスライディングの練習に早変わりしたが、子供たちはけっこう面白がっていたという。第1 回の合宿では、2 日目のメモに「流山市営総合グランドこけら落とし・リーグ戦」とあるから、この年にグランドが完成したものと思われる。

合宿中は、「ケンカもけっこうありました」と村上さんは言うが、それはクラブ内のことではなく、「朝のラジオ体操の時に通る地元の子がちょっかいを出してきてケンカになったんですが、私たちは見て見ぬふりをしてました。 あれでけっこう、仲間意識ができたように思います」とは、まさにケガの功名か。

「初石、試合に行く」

 

当時の市内のチームは、平和台と2 つしかなかった。その平和台は、初石より三年前の昭和51 年に結成されている。 初石ができてすぐ、市内大会がスタートした。 2 チームしかないから、優勝か準優勝しかなかったはずだ。

ちなみに、初石誕生から2 年後の昭和56 年に「ペガサスジュニアフットボールクラブ」が発足、3 チームとなっている。

最初の公式試合は、結成して翌年明けてすぐの冬場で、相手は平和台。「西初石小の授業参観の日と重なり、不戦敗を覚悟したんですが、初の公式戦で不戦敗はイヤだと思った。 決断するまで悩んだが、クラスの女の先生に相談したら、授業をさぼるのでなければいい、と了解をもらった。 校長と教頭にも密かに相談、内諾を得ていました。平和台の福島さんや三森さんは、キックオフを遅らせてくれました。 車を3 台並べておいて子供たちを拾い、駆けつけた。 その前の練習試合ではコテンパンにやられていたが、初の公式戦は勝てました」(村上さん)と、努力の成果もあがった。

昭和55 年初頭における東葛地区少年サッカー連盟は、加盟チームが初石と平和台の流山勢以外では、松戸の常盤平・梨香台・新松戸南、柏の豊四季・酒井根、我孫子の高野山・湖北台それに野田の野田少年と、合計10 チームのみ。

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