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ところで、私たちはここで膨大な村上メモから意外な事実を発掘した。 それは、初石サッカークラブが「キングストーンズ」と呼ばれていたことがあった、ということである。 もちろん、命名者は村上さんなのだが、由来は「初石」の石=ストーンと、恩人・石渡さんの石を拝借したことにある。

メモには、「児童の対外的心理に配慮し、A ・B ・C の等級によるクラス分けは避け、ホワイト・ストーンズ、レッド・ストーンズ、ブルー・ストーンズと呼ぶ」とある。 だが、いつのまにか「キングストーンズ」は定着せず、消えてしまった。

村上さんの平等の精神は別なところにも息づいていた。表彰をするなら全員にしようということで、まさに手作りの表彰状が残され、ファイルされている。 イラストの得意なお母さんや字のうまいお母さんが分担して、「努力賞」「技能賞」「殊勲賞」「皆勤賞」などを子供たち全員に与えていた。

「練習風景」

 

最初の練習に集結したのは20 人弱で、夏休み直前のこと。 今の常磐高速道脇にある東販グランドを借りたが、ボールこそあるものの、ゴールポストもない。 「ユニフォームなんてないから、学校の体操着に手製の布で背番号を付けました。その後、ゴールは塩ビのパイプで作った」(村上元会長)。ボールがなくては練習にならないため、さすがに入部の際に各自持

参という条件を付けた。練習場所として確保できた西初石小学校も最初から使用がオーケーだったわけではない。 「私が教頭や校長に会って、日曜日の開放をお願いしました。先行クラブに追いつき追い越せということで、

雨の日は体育館を借りて練習しました」(村上さん)というから、練習量は今より多かったかもしれない。そのうち、ユニフォームがほしいということになった。 そのころからスポーツショップを開いていたのが江戸川台のTSC で、石渡さんの紹介によって、いろいろな物が安く買えることになった。

日常の練習にも村上メモを基本に、様々な工夫をしたことがうかがえる。サッカーの経験者である石渡さんに加え、その後、松原宰さんがコーチ(後に初代監督に就任)として入ってくるものの、それでもコーチが足りない。そこで、村上さんは、「コーチ概要」を著し、技術編・精神活動編・戦法(術)と隊形(フォーメーション)などを詳細に書き記し、参考書としている。 中にはキックやヘディングなどの基礎から、フェイント、複合パスさらにはオープンスペースの作り方と利用の仕方など、高度な理解を求めた記述もある。 審判の方法も含めこのメモは手書きでびっしりと30ページ近くあるのである。 すばらしい“親バカに徹する心”と言っては失礼にあたるだろうか。

ところでここに、かねてからの大きな疑問がある。 それは、なぜ初石のユニフォームが「赤」なのか、ということ。 今回、この答えがようやく見つかった。

 

「初石の『赤』の秘密」

 

私たちのクラブに、応援歌とクラブ歌があるのを知っていると思うが、これを歌える人は少ない。それはともかく、応援歌の歌詞では、一番の中で「旭日が昇る輝く笑顔、ファイトを秘めて汗と涙、紅い軍団 団結のしるし」とある。また、「真っ赤に燃ゆる夕陽の丘よ」など、「赤」が強調されている。だが、応援歌の歌詞二番には、「蒼い軍団 団結のしるし」ともある。 青とは何か。これが後に、練習用のユニフォームは赤で、試合用は青という初石のアイデンティティの原点となる。 例えば、歌「初石少年サッカーマン」の中でも、「青空あおぐ」とか「燃ゆる炎の」など、赤と青で闘う戦

士のイメージが浮き彫りにされている。「本当は、『赤』のユニフォームが一番安かったのです。 それに、赤は目立つでしょう。また、私や秋山さんの家には女の子がいなかったのです。 だから、赤を着せてみたかったのいうのもありました。そのうちに、ブルーの試合用とゴールキーパー用などをクラブのものとして会費からそろえていきました」と打ち明けるのは村

上夫人である。

こうした歌を作詞したのは村上さんだが、「長くクラブを引き継いでいくためには確固たるバックボーンが必要と感じました。社歌や組合歌などのイメージがあり、シンボルになるものをと考えて、ユニフォーム姿や取り巻く自然環境を取り入れました」。二つとも作曲は当時の西初石小教頭・石橋常雄先生で、ピアノの伴奏も喜んで協力して下さった。 改めてここで

感謝申し上げたい。

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